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「ものの初めての物語」
2005年2月10日に「スキー」の起源について書かせていただいてから早4年。月日の流れるのは本当に早いものですね。
おかげさまで、<初めて>の調査好きは昨年の秋期企画展で、“音の携帯”にテーマを絞ってカーステレオとともに「ヘッドホンステレオの初めて」をご覧いただく展覧会に発展しました。しかし、開発の中心的なお仕事をされた篠静雄氏が、狭山市のご出身であったとは…! 企画展のアンケートを拝見すると、ご覧いただいた皆さんも驚かれた方が多かったようですね。
さて、今回は桜の名所「狭山稲荷山公園」より<公園>についての「初めて」の話題をお届けいたします。
日本で「公園」というと、まず「○○公園管理事務所」という言葉が思い浮かぶほど、国や地方自治体に管理されている場所…というイメージが強いように思います。
しかし、西洋の公園の場合には「市民ための公園」と素直に言えるのはなぜでしょう?
それは西洋の公園が、元来は王侯貴族などの権力者が独占使用していた私有の庭園などを、市民の要求で開放させたものであるからではないでしょうか。つまり市民のカによる封建制度の崩壊が、公園を民衆の共有物にしたという過去があるため、日本と西洋の市民の公園観の大きな違いがあるのではないかと思います。
日本では、明治6年(1873)年に「社寺其他名区勝跡ヲ公国卜定ムルノ件」に関する太政官布告が出され、全国的に公園が設置されることになりました。この布告に基づいて東京では、上野・芝・浅草・深川・飛鳥山の各公園が生まれたのですが、そのほとんどが<寺社の境内>というのが特色でした。以後全国に公園が設置されましたが、その数は明治、大正年間で約4500ヶ所になりました。
そして、明治22年(1889)年に都市公園史上画期的なできごと言われる 東京の都市計画「東京市区改正」が行われました。これによって以後の全国の都市公園の方向性が特徴づけられました。それは、第一に公園設置計画の基準が欧米都市を模範として設定されたこと、第二に行政主体で公園の設計、デザインが行われたことでした。
面白いことにこの時公園に指定された場所の七割が『江戸名所図会』に描かれている場所でした。つまり、近代行政制度の中で出発した公園ではありましたが、実際には江戸時代の遺産に依存して設置されていたわけです。
日本初の西洋式公園は、明治36(1903)年に開園した日比谷公園で、計画から開園まで19年を費して設計案は何と9案も作られたそうです。最終設計は、当時帝国大学農科大学の教授であった本多静六のものが採用されました。
本多はドイツ留学中に入手した当時の代表的な都市公園図を参考にして設計図を書きましたが、それが西洋志向の行政側の見解と合致し採用されたのです。
<近代化=西洋風>の風潮の中で日比谷公園は誕生し、都市公園の理想とされたのです。
≪参考文献≫ 飯沼二郎・白幡洋三郎 著『日本文化としての公園』八坂書房 1993
(Y・I)
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