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平成17年7月17日に放映されたNHK大河ドラマ「義経」の中で
狭山市の史跡などが紹介されました。


徳林寺(とくりんじ)

画像:徳林寺の外観 徳林寺は曹洞宗の寺院で、武蔵野三十三観音霊場の第十七番札所です。本尊は木造釈迦如来坐像ですが、頭に冠を戴く菩薩形に造られています。創建年月は不明ですが、元弘3年(1333)5月に新田義貞が鎌倉を攻めるに当たり陣を敷いた場所といわれ、文和2年(1353)8月から9年余にわたって鎌倉公方(くぼう)の足利基氏(もとうじ)が滞陣した入間川御所の地ともいわれています。中興開山は一樹存松(いちじゅそんしょう)で、同人は天文2年(1533)に亡くなっています。

 同寺には美術的に優れた2点の仏画【絹本着色釈迦涅槃(ねはん)図と絹本着色釈迦八相(はっそう)図】があり、狭山市指定文化財になっています。

 境内に目を転じると、「子育地蔵尊」の額を掲げた小さなお堂があります。この中には元禄6年(1693)2月に造立された丸彫りの地蔵菩薩が安置されていますが、今でも「安産と子育てのお地蔵さま」として多くの人々の信仰を集めています。それはお堂の周りに、「祈安産」などと書かれた襷(たすき)やよだれ掛けが供えられているのを見ればわかります。

画像:穴あき石 お堂の周囲をよく見ると、穴あき石がたくさん納められています。これは耳の悪い人が地蔵に願を掛けたところ、たちまち聴こえるようになったので、「耳が通った」とのお礼に供えたのが始まりといわれています。この話は瞬く間に近郷近在で評判となり、それを伝え聞いた人は争うように参詣に見えたといわれています。こうしたことがあって、大願成就を祈るときは穴あき石を供えるのが習わしになったとのことです。【穴あき石(さやまの絵本へ)

 なお、この地蔵は別名を「成円(じょうえん)地蔵」といいますが、それは江戸時代まで中央公民館のところに所在した成円寺にあったためといわれています。
 

周辺地図:徳林寺

絹本着色釈迦涅槃(ねはん)図と絹本着色釈迦八相(はっそう)図 
狭山市指定文化財、昭和61年(1986)11月1日指定、有形文化財・絵画

 2点の仏画はいずれも絹地に極彩色で描かれており、涅槃図は入間川村で440石余の知行地(ちぎょうち、領地)を持っていた幕府旗本の小笠原家が、元禄元年(1688)に同寺へ寄進したものです。また八相図は、当地の豪商の綿貫家が延享2年(1745)に奉納したものです。

 涅槃図の作者は御絵所宗貞(おえしょむねさだ)です。絵所とは幕府の絵画を扱う役所のことですので、宗貞は公儀お抱え絵師の1人と考えられます。八相図は作者不詳ですが、大和絵系の名のある絵師によって描かれたものと推察されています。大きさは、涅槃図が縦177.5cm、横104cm、八相図が縦188.5cm、横104cmです。

 ところで、涅槃図とは釈迦が亡くなったときの様子を絵にしたもので、弟子や諸王から動物までもが嘆き悲しんでいる姿が描かれています。八相図とは釈迦の生涯の主要な出来事8つを絵にしたものですが、これには7場面しか描かれていないので、涅槃図と合わせて八相図になるように描かれたものと思われます。
 
影隠地蔵  狭山市指定文化財、昭和52年(1977)9月1日指定、記念物・史跡

画像:影隠地蔵 影隠(かげかくし)地蔵は、源義仲の子の清水冠者義高(かじゃよしたか)が、源頼朝の放った追手から難を避けるため、地蔵の背後に姿を隠したところから名づけられたもので、現在は柏原側に立っていますが、かつては広瀬側にあった地蔵堂の中に安置されていました。

 鎌倉幕府の公式記録とでもいうべき『吾妻鏡』によれば、義高は元暦元年(1184)4月に「入間河原」で討たれています。頼朝が義高を殺害したのは、義仲が後白河法皇に背いたためで、その詳細は「清水八幡」の項をご参照ください。

 ところで影隠地蔵の話は、江戸時代後期に編さんされた『新編武蔵風土記稿』にも載っているので、かなり昔から語り伝えられていたことがわかります。「入間河原」で討たれたはずの義高が、対岸まで逃げ延びて地蔵の後ろに姿を隠したというのは、若くして非業の死を遂げた義高を哀れむ里人により創作されたものと考えられます。

周辺地図:影隠地蔵

 
清水八幡 狭山市指定文化財、昭和52年(1977)9月1日指定、記念物・史跡

画像:清水八幡の外観 清水八幡は、清水冠者義高(かじゃよしたか)を祭神とする神社で、狭山市指定文化財になっています。

 ここに義高を祀(まつ)る神社があるのは、元暦元年(1184)4月に源頼朝の放った追手により「入間河原」で討たれた義高を哀れんだ里人が、その遺骸を埋めて墓を築いたためです。
義高は源義仲(頼朝とは従兄弟)の嫡男で、その後、頼朝の娘である大姫(おおひめ)の婿となった人物です。頼朝が娘婿を殺害したのは義仲が後白河法皇に背いたためで、朝敵(ちょうてき)の子をそのまま放置できなかったためと考えられています。

 同社の創建年月は不明ですが、頼朝の妻の政子が関与したとの伝承が残っています。それは、政子が壮麗な社殿を造営して神田(しんでん)まで寄進したというもので、応永9年(1402)8月の大洪水ですべてが流失してしまうまで、隆盛を誇ったといわれています。

 現在の本殿は昭和34年(1959)10月の建立で、この中には永享2年(1430)銘の石祠が祀られています。

周辺地図:清水八幡

 
【全体図】

地図:全体の位置関係

 

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