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城山砦跡

更新:2018年7月15日

  • 城山砦跡

  • 城山砦跡概略図

柏原にある城山砦跡は市内唯一の中世城郭(じょうかく)で、面積は約7,000平方メートルです。この砦は別名を上杉砦といいますが、それは天文14年(1545)9月から半年近くにわたり、上杉憲政(のりまさ)が陣を敷いたためです。憲政がここに着陣したのは、同6年(1537)7月に小田原(神奈川県)を本拠とする北条氏の手に落ちた河越城を奪い返すためでした。現存する砦跡は、入間川の流れに(くい)を打ち込んだように迫り出した台地端部にあり、沖積面(ちゅうせきめん)から10メートルほどの河岸段丘(かがんだんきゅう)上に、東から本郭(ほんくるわ)・二の郭・三の郭の順に並んでいます。
本郭は東南にやや広がりを持つ台形に近い形状で、東西両側と北側には高さ3メートルほどの土塁(どるい)があり、面積は約3,500平方メートルです。ここに立つと、かつての入間川宿を一望に見渡せるので、物見櫓(ものみやぐら)的な施設があったと考えられています。また、北側の土塁上には「折り」と呼ばれる突出部があり、西側の土塁はその一部が空堀(からぼり)に迫り出しています。
東側を除く本郭周囲には空堀が巡っていますが、その深さは平均で約3メートルです。幅はもっとも広い所で7メートル、狭い所で3メートルあり、平均は約4メートルです。南側の堀は現在道路となっているため傾斜はゆるやかですが、かつては段丘とほぼ直角に交わる竪堀(たてぼり)構造で、敵の攻撃に対処できるようになっていたと思われます。
二の郭は本郭の西側にあり、本郭とは深さ3メートル、幅3メートルほどの空堀で区切られ、北東端部が突き出た形状をしています。本郭とは土橋(どばし)で結ばれていたと思われますが、土塁が見られないので、あるいは本郭からの「馬出し」と見ることもできます。
三の郭は二の郭の西側にあり、北側には堀状の遺構があります。この遺構は現在、大部分が埋まっていますが、かつては本郭を巡る空堀と同程度のものだったと推察されています。土塁は認められませんが、削り取られた可能性があります。

以上が現存する各郭の概観ですが、入間川に面した南側に竪堀を配置し、さらに本郭の土塁上に「折り」を入れた内外に対する縄張りは、城郭としてかなりの完成度を示しており、時代的な背景から北条氏の城郭と考えられています。
ところで、この砦跡は前述したように上杉憲政が陣を敷いたところですが、その一方で、鎌倉時代に畠山重忠(はたけやましげただ)に従った柏原太郎(かしわばらたろう)の館跡ではないかともいわれています。柏原太郎は、源頼朝が行った奥州藤原氏の征伐に従った武蔵武士で、重忠の従軍5騎のうちの1人です。また一説によると、南北朝時代に鎌倉公方(くぼう)足利基氏(あしかがもとうじ)が入間川に滞陣した際の出城とする説や、明応5年(1496)に上杉顕定(あきさだ)が上杉朝良(ともよし)方の河越城を攻めたとき、顕定と手を結んだ足利成氏(しげうじ)の子の政氏(まさうじ)が着陣したところともいわれています。
一つの砦を巡り、上杉・北条・柏原・足利と多くの人物が登場するのは一見矛盾するように思えますが、城郭はその性格上、どこにでも築くことができるものではありません。戦略や戦術を見きわめながら、自然条件を考慮して築くのが常です。したがって、現存する砦跡が戦国時代後期の技法により築かれていても、それがその時代に全面的に築かれたものとはいえません。おそらくこの砦は、上杉憲政が上杉朝定(ともさだ)の一軍と河越城を包囲した際、ここにかつてからたびたび利用された城跡があるのを知り、その一部を改修して着陣したものと思われます。
したがって、上杉連合軍が北条氏康(うじやす)に敗れたのちは、この砦も当然のように北条氏の手に移り、以後は同氏の城郭として機能していったと考えられています。

  • 埼玉県選定重要遺跡
  • 狭山市指定文化財〔記念物・史跡〕
  • 指定日:昭和48年(1973)3月1日

場所

所在地

狭山市柏原2346番地の2他

関連項目

民話・伝承

問い合わせ

生涯学習部 社会教育課 組織詳細へ
狭山市入間川1丁目23番5号
電話:04-2953-1111
FAX:04-2954-8671

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