狭山市ゆかりの武将・清水冠者義高

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更新日:2022年5月2日

清水冠者義高こと源義高は、源義仲の子です。 成人の儀を終えたばかりの11歳のときに、源頼朝の元へ人質として送られました。 鎌倉で頼朝と北条政子の子、大姫の婿として1年を過ごしますが、 父 ・ 義仲が頼朝に討たれたことで、状況は一変します。頼朝は、義高が自分の事を父の敵と思っているのではないかと疑い、 義高殺害の必要性を部下にほのめかします。 これを漏れ聞いた大姫の助けで、 義高は屋敷から脱出。細心の注意を払いながら逃走しますが、追っ手に見つかり、「入間河原」で討ち取られてしまいました。狭山市には、 義高が追っ手から身を隠したと言い伝えられている影隠地蔵、そして、義高が討たれたとされる入間川沿いには、義高を祭る清水八幡があります。

清水八幡(狭山市指定文化財。所在地:狭山市入間川3丁目35番9番)

義高を祭神とする神社です。入間河原で討たれた義高の死を哀れんだ入間川の里人がその遺骸を埋めて墓を築いたとされています。また、この話を聞いた北条政子は、墓を清水八幡とし、入間河原の近隣鎮護の神として祭られるようになったと伝えられています。その後洪水で流されるなどし、幾度か場所は変わりましたが、現在は最初の墓に近いとされる場所に祭られています。

入間川

義高は頼朝の追っ手から逃れようとしましたが、入間河原で捕まり討たれたとされています。5月になると、「源義高鯉のぼりの会」の皆さんによって、義高の供養と子どもたちの健康、成長を祈念したたくさんの鯉のぼりが入間川を彩ります。

影隠地蔵(狭山市指定文化財。所在地:狭山市柏原204番地の1)

信濃坂の下、広瀬地区と柏原地区の境にある奥州道の交差点付近に立っている影隠地蔵。義高が、頼朝からの追っ手をやり過ごすため、一時的に地蔵の背後にその姿を隠したといわれています。昔は鬱蒼とした篠竹の藪の中に地蔵堂があり、その中に木像が安置されていたと伝えられています(現在は石の地蔵)。

義高の悲話

源義仲が木曽で挙兵し、東山道、北陸道を制し、これと同時期に頼朝が伊豆で挙兵し、関東をまとめ、これから源平の戦いがいよいよ大きくなるというとき、頼朝に対して不満を持っている源行家が、義仲の所に身を寄せたことに端を発して、義仲と頼朝が不和になります。頼朝は使者を立て、「行家をかくまい頼朝に敵対するのか。そうでないならば行家をこちらに引き渡してほしい。行家を引き渡さないというならば、成人した子息をよこされよ。」と義仲に詰め寄ります。義仲は「頼ってきた叔父は、頼朝殿に恨みがあるとのことを申しております。私が素気無い扱いをしては不憫でありましょう。しかし、義仲には頼朝殿への叛意はありません。お求めに応じ子の義高を参らせます。義仲が傍でお仕えしているものと思ってください。」と使者に伝え、齢11歳で成人したばかりの嫡子・義高を供として付け、頼朝の下へ送り出します。ここで頼朝と争ってしまっては、義仲は頼朝と戦い、さらに平家とも戦うことになってしまいます。また、一度受け入れた行家を頼朝の圧力に屈して差し出してしまっては、家臣の信頼を失い、離反者が出たりして勢力は削がれ、近しい一族はきっと生き残れないであろうという状況の中での苦渋の決断でした。頼朝はこれに満足し、義高を鎌倉へ連れ帰り、事は一旦収束します。
(「清水冠者」における寿永2年(1183年)3月上旬の記述で、義高が源頼朝の人質にされてしまう場面)

鎌倉へ入った義高は、頼朝と北条政子の長女・大姫の婿(許嫁であったと考えられる)として一年間を過ごします。しかし寿永3年1月、義高の父・義仲は、あれだけ苦しんで和解した頼朝に結局は討たれてしまいました。そしてその3か月後の4月21日、義高の運命は大きく動きます。頼朝は義仲を討ったことからその嫡子である義高の叛意を疑い、義高を殺害すべきと自らの部下に密かに伝えたのです。これを大姫のお付きの者達が漏れ聞き、大姫に伝えます。大姫と義高らは計略をめぐらし、義高は女房姿に変装し大姫のお付きの者らに囲まれて鎌倉の屋敷を脱出し、馬を使って遁走を図ります。馬の走る音を人に聞かれないように蹄には綿袋を付ける程の気の配りようでした。一方、屋敷では木曽から供をしてきた海野幸氏が義高の好きな双六を一緒に打っているふりをし、周囲の人々に義高と一緒にいると思わせ、時間を稼ぎました。しかし皆の努力もむなしく、その日の晩には露見してしまいます。激怒した頼朝は、すぐに幸氏を監禁するとともに、逃げた義高には堀親家を差し向け、兵を方々の道路に放ちました。大姫は魂が消えてしまいそうな程心配しました。そして遁走から5日後の26日、堀親家の郎従である藤内光澄が帰参し、義高を入間河原で討ち取った旨を頼朝に報告します。これを大姫が漏れ聞き、あまりの悲しみのために水を飲むことも断ってしまいます。母である北条政子もその様子を見てとても心を痛め、屋敷中の者も歎きの色を示していました。一方この時の頼朝の大姫に対する記述は特になく、義高の残党が甲斐や信濃で叛意を持っているのではないかとの風聞があったとして、兵を差し向けて抑え込みをするなど、政治的な動きを進めるだけでした。
政争に明け暮れ、娘・大姫の心を察しようとしない頼朝に対し、政子はいら立ちを募らせます。そして大姫が日を追うごとに憔悴していく姿に政子の怒りが爆発します。頼朝に対し、「頼朝殿の命令は大切であるといえども、義高を討ち果たすなどという大事の場合、その命令を受けた者は内々に大姫に告げ申しおくべきでしょう。そのような不義の者は罰すべきです」と責めたのです。光澄にしてみれば主の命に従っただけであり、恐ろしいとばっちりですが、実はこの事件の二年前に伏線となるやり取りがあります。
寿永元年(1182年)8月の事、政子は第一子となる源頼家を産みますが、同じ頃に頼朝が部下の伏見広綱の家で亀の前という女性と密通していることを知ります。政子は大いに憤り、別の部下の牧宗親に広綱の家を破却させます。しかし頼朝は、これを聞いて宗親を呼び寄せ、「政子の命令は大切であるといえども、亀の前の居る家を破却するなどという大事の場合、その命令を受けた者は内々にこの頼朝に告げ申しおくべきであろう」と言い、罰として宗親の髻を切り落としたのです。
政子の言葉は、この時の頼朝の言葉をそのまま返したものだったのです。頼朝は政子の怒りと理から逃れることが出来ず、光澄は罰として梟首されてしまいました。
この事件以降、頼朝は、病気がちになってしまった大姫を大切に扱うようになり、病気の平癒祈願をしたり、なんとか幸せな結婚をさせようと後鳥羽天皇との縁談の話を進めるなどしたりしましたが、その甲斐空しく、建久八年(1197年)、大姫は亡くなりました。二十歳という若さでした。

参考文献

参考:「吾妻鏡」「平家物語」「八幡神社縁起」(※諸説あります)

このページに関するお問い合わせは
企画財政部 広報課

狭山市入間川1丁目23番5号

電話:04-2935-3765

FAX:04-2954-6262

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