先土器時代~縄文時代の狭山市
先土器時代から、人びとは生活技術を向上させ、より進歩した石器や土器などの生活道具を生み、糧を求めた放浪から家屋を築き定住することに移行してきました。
縄文時代になると、人びとは水の豊かな入間川を望む両岸の台地に集落を築き、採集や狩猟などで糧を求め、石で斧や矢尻をつくり、土を用いて容器をつくり、さらに装身具や宗教的な用途にあてられたとみられるさまざまな「モノ」を生み、文化といえるものを造りだしてきました。 集落の遺跡が数多く残されていることから、この時代の自然環境が比較的豊かであったと考えられます。
奈良・平安時代の狭山市
藤原氏を頂点とした宮廷貴族は律令制による班田を私[わたくし]し、私有の荘園として経済力をバックに優美な貴族文化を生み出しました。
宮廷貴族が寝殿造りなどの華麗な邸館を構えたのと比較し、この時代の狭山の人びとの集落や住居は、屋内に竈[かまど]が築かれた以外は、縄文時代とあまり変化はなく、その格差は非常に大きなものでした。 当時の集落は水はけのよい台地にあり、低地では水田耕作が行われていたと考えられます。
鎌倉時代の狭山市
文治元年(1185)源義仲、源義経などが平氏一族を滅亡させ、建久3年(1192)に朝廷から征夷大将軍に任ぜられ、鎌倉に幕府をひらき政権を掌握しました。
狭山地方は鎌倉政権を支える武士団の版図[はんと]となり、鎌倉とそれら関東武士団の本拠地を結ぶ交通の要となりました。
徳川時代の狭山市
豊臣秀吉は天正18年(1590)徳川家康を関東に移封し、家康は江戸を本拠に領国の経営を開始しました。
その後、家康は豊臣氏を滅ぼし、慶長8年(1603)征夷大将軍となり江戸に幕府を開きました。
現在の狭山市を構成する18か村の村々は天領(幕府直轄地)、川越藩領、旗本の知行地などに分割支配されました。
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狭山市入間川1丁目23番5号
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