青柳釈迦堂

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更新日:2011年3月1日

青柳釈迦堂

昭和30年、飯島牧太郎宅から「利白和尚霊験記」という釈迦堂の由来記が発見されました。これは次のような内容です。
関白秀次公につかえた富田蔵人高定の孫である万吉は祖父、父の冥福を祈るため諸国を行脚し、万治元年(1658年)川越喜多院で僧広坊につかえ、智円と称しました。その後、法名を利白と改め、寛文10年(1670年)青柳村の長三郎という農家をたより、庵を修理して住んでいました。
延宝6年(1678年)10月、病が重くなり近所の人たちが集まって看病していてくれましたが、利白は自らの臨終を知り、故心という出家を呼んでもらい『自分は近く往生するが自分の亡くなった後に釈迦如来を彫った墓石に自分の名も付けて置いてもらいたい。もし墓石を一心に拝めば何事でも願いをかなえるであろう』といって、この年11月22日の辰の刻に亡くなってしまいました。行年67歳でありました。故心坊主は言われた通り墓石を建てました。
その後100年くらいもたった安永5年(1776年)夏の頃、青柳の農家安右エ門の妻は子どもを残して亡くなってしまいました。子どもを残された安右エ門は乳児に飲ませる乳がなくて困り、老母に預けていました。
老母もこまり、知らずに利白の墓の釈迦如来に祈ったところ、夢でお告げがあり『自分は利白というものであるが釈迦如来を祭った墓石の近くに井戸があり、その水を乳房につけ、又お前も朝夕飲めば乳が出るだろう』といわれました。
老母はすぐお参りして近くに涌いていた井戸水を乳房につけ、飲んだところたちまち乳房がふくれあがりお乳が流れて出てきました。老母は喜んで子どもに飲ませ、その子は無事に成長しました。
たちまちこの井戸の霊水の霊験あらたかなことが知られ、この釈迦如来の石碑に参詣する人がたえなくなり、その後、堂が建てられ、益々信者によってにぎわったそうです。
明治の頃は乳の出ない人が信仰すれば必ず効果があると遠近の人々が参詣に来て、縁日には見世物小屋まで掛りにぎわったと伝えられています。

  • 本尊:釈迦如来(しゃかにょらい)

場所

所在地
狭山市大字青柳974番地2
青柳釈迦堂

民話・伝承

このページに関するお問い合わせは
生涯学習部 社会教育課

狭山市入間川1丁目23番5号

電話:04-2946-8594

FAX:04-2954-8671

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