この土器は、狭山市柏原に立地する丸山遺跡から出土した土器で、縄文時代中期、約4千300年前のものです。全体の約90%が復原されました。千葉県千葉市所在の加曽利貝塚で発掘された土器を基準として、加曽利E式土器(「E」は発掘地点名)と呼ばれています。前回、前々回に紹介した勝坂式土器と阿玉台式土器は、関東地方を二分するように分布しましたが、加曽利E式土器は、これらを引き継ぎ、関東全域に広がります。
図1
加曽利E式土器は、I~IV式と4段階に変化します。第1段階では、東西関東の地域差が目立ちます(図1・2)。図1は笹井所在の宮地遺跡で出土した土器で、口縁部にクランク状の文様を付けています。この文様は、千葉県や茨城県で多く見られます。ただし、地の文様は櫛のような道具で付けられており、西関東の手法を採用しています。
図2
図2も同じ宮地遺跡で出土した土器で、同時期のものですが、口縁部の文様はS字を横にしたような文様です。これは埼玉県、東京都、神奈川県などで主体となります。つまり、この段階では勝坂式、阿玉台式の対峙関係が残っていたと言えます。
今回紹介する加曽利E式土器は、第2段階に位置付けられます。東西地域差がほぼ解消され、関東一円で似かよった土器が作られるようになります。土器は、そこに住む人々の顔のようなものです。それが同じ土器になった背景には、社会の大きな再編成が行われたと考えられます。この時期以降、集落数は増加し、住居も規模が大きくなり、人口の増加を裏付けています。加曽利E式土器が作られた時代は縄文時代の中でも、最も安定していた時期と言えましょう。
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