第10回 注ぎ口が付いた土器の話2

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更新日:2015年2月5日


前回は宮原遺跡出土の注口土器(ちゅうこうどき)を紹介しましたが、今回は下奥富所在の稲荷上(いなりうえ)遺跡出土の注口土器をご覧いただきます。この土器は約4,200年ほど前の縄文時代中期後半のもので、縄文時代後期の宮原例より古いものです。宮原例は現代の土瓶に近い形をしていましたが、稲荷上例は壺に注ぎ口を付けたような形をしています。文様は胴部の上半分に撚糸文(よりいともん)を施し、竹を半分に切ったような道具の内側で窓枠状の文様を描いています。枠内には十字文などが見られます。文様としては同じ時期の土器と大差なく、注ぎ口が付いているほかは特殊な印象はありません。また、土器の下部には火にかけたような痕跡がないため、この土器は注ぐことに機能が限定されていたと思われます。

上の写真の土器は日高市所在の明婦(みょうふ)遺跡から出土したもので、稲荷上例より古い、縄文時代中期中ごろのものです。稲荷上例は壺に注ぎ口を付けたような形をしていましたが、こちらは浅い鉢のような小形の土器に不釣り合いな大きさの注ぎ口を無理やり付けたような形をしています。文様はシンプルで、渦巻き模様が注ぎ口の両側に置かれています。稲荷上例と同じく、火にかけたような(あと)はありませんでした。


縄文時代に限らず、器にはそれぞれ用途があります。稲荷上例の壺は本来貯蔵用の器ですし、明婦例の浅鉢は盛り付けに使うのが本来の用途と思われます。これらの本来用途が異なる土器に、注ぎ口を付けたのはなぜでしょうか。縄文時代の日常的な器には、壺や浅鉢の他に煮炊きに使用する深鉢(ふかばち)(甕)があります。これは想像ですが、これらの土器の製作者は「注ぐ機能を持った土器」が欲しかったのですが、宮原例の時代のような注口土器の概念(がいねん)がなかったため、従来作られていた壺や浅鉢に注ぎ口を付けたのではないでしょうか。
稲荷上例の数百年後には宮原例のような土瓶様の形で作られ、「注口土器はこの形」ということが関東地方を含む広い地域での共通した考えになっていったと思われます。なお、土瓶形の注口土器は縄文時代後期以降、縄文時代の終わりまで作られますが、弥生時代には姿を消します。

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狭山市入間川1丁目23番5号

電話:04-2946-8594

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