第7回 西浄寺の宝篋印塔

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更新日:2014年1月10日

宝篋印塔とは、「宝篋印陀羅尼経」という経典を収めた塔であることから、このように呼ばれており、経典は、正確には「一切如来心秘密全身舎利宝篋印陀羅尼経」といい、「全ての如来の教えの真髄を記した呪文」といったような意味があります。
日本では、この経典を書写や読誦、また、経典を収めた塔を礼拝することが、飛鳥時代から始まったといわれています。古くは木製でしたが、鎌倉時代頃になると石造の塔が造られるようになり、本来の目的とは異なって、墓塔や供養塔として建てられることが多くなります。

西浄寺の宝篋印塔

柏原の西浄寺には、徳川宗武(江戸時代の御三卿田安家の初代当主、八代将軍吉宗の次男)が建てた高さ3.5メートル程の宝篋印塔があります。
塔身には、
徳川右衛門督宗武卿
命工造此制底一基
以祈冑子寿丸君之寿福
貧道欽書寫宝篋印陀羅尼一巻
以納于塔内
兼書四如来種子而刻之於四面云
宝暦四年甲戌春三月
江府霊雲精舎法明識
と彫られており、西浄寺の本寺である、江戸湯島霊雲寺の法明(第四世)という住職が、宗武の命によってこの塔を建て、息子の寿丸(徳川治察(はるさとはるあき))の健康や幸福を願い、宝篋印陀羅尼経一巻を書写して塔に収めたことがわかります。

昭和六十三年に天災によって塔の一部が倒れてしまい、修復のために塔全体を解体したところ、塔の内部から銅と桐の二重箱が発見され、その中には経典の巻物と大黒天の図が収められていました。
その巻物の最後には、
従三位宰相徳川右衛門督
宗武卿造立宝篋印塔一基
以祈嫡子寿丸君寿福余為
之書写此経一巻以納之於
塔中云爾
宝暦四年星次甲戌春二月
武江府宝林山霊雲寺芯芻
法明欽識
と書かれており、塔身に書かれている通りの内容であったことがわかっています。
塔も大きな破損はなく、現在は元の状態に組み戻してあります。

西浄寺について

西浄寺の創建は不明ですが、新編武蔵風土記稿によると、元の本尊銅造大日如来像の背後には、延宝(1673~1681)中の第2世泉海の代には白玉山西常寺と号していたと記されています。(この本尊は現存していません。)
古文書「最浄寺由来記」(個人所有)によると、同じ柏原地区の常楽寺の末寺で天台宗でしたが、寺が荒廃したため、元文5年(1740)に下野国(現栃木県)より高健和尚を招き、江戸湯島の霊雲寺を本寺とし、真言宗に改宗したことが記されています。
別名甲子寺(きのえでら)とも呼ばれていますが、これは、中興の高健和尚の持仏といわれている大黒天の信仰が隆盛となって、多くの甲子講で賑わったといわれ、大黒天のお使いがネズミであるところから、十二支の子(ね)をあてたことに由来しています。宝篋印塔の中に大黒天の図が納めてあったのも、その影響があったことを裏付けています。
幕末から明治にかけて住職を務めた第7世法泉(宝仙とも)は絵を好み、江戸画壇の大家河鍋暁斎を師事していました。暁斎もたびたび西浄寺に訪れ、市指定文化財「ねずみの図」などの作品を残しています。

徳川宗武にまつわる主な文化財

狭山市以外で宗武が造立した宝篋印塔が各地に残っています。

  • 群馬県太田市清泉寺
    娘夫婦の寿福を願って宝暦5年(1755)に造立(群馬県太田市指定)
  • 神奈川県川崎市川崎大師平間寺
    厄払いの祈願のため宝暦6年(1756)に造立
  • 東京都葛飾区大殊院
    側室のために宝暦11年(1761)造立

また、栃木県鹿沼市には宗武が霊雲寺第四世法明に賜ったといわれる「木造愛染明王坐像」が栃木県指定文化財に指定されています。

関連項目

このページに関するお問い合わせは
生涯学習部 社会教育課

狭山市入間川1丁目23番5号

電話:04-2953-1111

FAX:04-2954-8671

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