聖地を巡拝することは、世界的にみられます。「日本紀略」には、円融院法皇が諸寺を巡拝したことを載せているので、我が国では平安時代から行なわれていたことがわかります。また、法華経を保存する目的で、全国66か所の霊場に納経して回ることも鎌倉時代初期には行なわれていました。
こうしたなか、観音霊場を巡拝して回る信仰は、江戸時代になって交通網が整備されると庶民の間にも広まりました。
巡拝供養塔とは、こうした霊場を巡拝した記念に建てられたものをいいます。
回国供養塔
回国供養塔
回国供養とは、釈迦如来が亡くなってから56億7000万年後に弥勒菩薩が現れて私たち衆生を救ってくれるそのときまで、法華経(大乗妙典)を保存する目的で、我が国の66か所の霊場に納経して回ることをいいます。
市内には13基の回国供養塔が残されていますが、これらをみると、そのほとんどが18世紀に造立されています。
観音霊場巡拝供養塔
観音霊場巡拝供養塔
観音霊場とは、西国三十三か所・坂東三十三か所・秩父三十四か所のことで、江戸時代になるとこれら霊場を巡拝することが盛んになりました。巡拝は巡礼や遍路とも呼ばれ、白装束に白足袋をはき、金剛杖をつき、数珠や鉦を手にご詠歌を詠じて巡り歩くことで、巡拝供養塔はその記念に造立されたものです。
市内には18基の供養塔がありますが、その造立は寛政年間(1789~1801)以降から増えるので、このころから経済的余裕のある農民層の間で、巡拝の風潮が広まっていったと考えられます。
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