「現当二世安楽」とは、「この世とあの世」の二世にわたり、幸せに暮らせることを願うことです。
市内の石仏をみると、この文字を刻むものがたくさんあります。それは、農民をはじめとする多くの庶民が、取り返しのつかない過去の世はともあれ、この世にあって善を施すことにより、あの世での幸せを願うという純朴な信仰心が、造立供養にむすびついていったためと考えられます。
そのため、この供養塔は地蔵菩薩をはじめ、馬頭観音・如来などのさまざまな仏像が、自分たちの日常生活とのかかわりの中で造立されていきました。
なお、庚申信仰は、仏教とは無関係の中国の民間信仰から生まれたものですが、我が国に伝わってからは仏教の現当二世安楽の性格を強く持つに至ってため、ここで取り上げることにしました。
庚申塔
庚申塔とは、庚申信仰から生まれたもので、市内では地蔵菩薩や馬頭観音に次ぐ38基が造立されています。
庚申信仰
第1期の庚申塔
庚申信仰の源流は、中国の道教にあるといわれています。
庚申信仰とは、人の体内に棲む三尸という虫が、60日ごとに巡ってくる庚申の晩に天に昇り、天帝にその人の罪科を告げて寿命を縮めさせるのを防ぐため、この日は眠らずに一夜を過ごし、三尸が天帝のもとへ行けないようにするという「守庚申」から始まったものです。
庚申信仰に仏教的色彩が強く現れ出したのは室町時代になってからで、このころから阿弥陀如来などの諸仏が礼拝して夜明かしをする「庚申待」が行なわれるようになりました。
そして江戸時代になると、この信仰は農民層にまで広がり、各地に講が結成されました。彼らは庚申の晩に集まり、眠らぬように努めましたが、そうした中で交わされる言葉は、最大の関心事である農業や日々の暮らしの行く末についてでありました。その結果、庚申信仰はしだいに現当二世安楽を願う信仰へと姿を変え、互いに金銭を出し合って庚申塔を造立するようになったのです。
造立の時代的推移
第2期の庚申塔
江戸時代に建てられた庚申塔は、その形態から3期に分けることができます。
第1期は、三猿を主尊のように配した寛文9年(1669)から元禄5年(1692)までです。第2期は、青面金剛を主尊とした元禄6年(1693)から寛政元年(1789)、第3期は、庚申の文字のみを刻む寛政11年(1799)から幕末にかけてです。
次にこれを造立者でみると、第1期は、比較的少人数の、村の長級の農民による造立と思われる時期で、その初期には僧侶と考えられるものがみえ、やがて寺名を刻むものが出てきます。第2期は、惣村中や講中など、多人数による造立の時期です。このころになると、寺名のほかに、指導者的役割を持つ僧侶名を刻むものも現れます。第3期は、個人的色彩の強い造立に特色があり、僧侶名などを刻むものは皆無となります。
最後に地区別にみると、堀兼がもっとも多くて11基、次いで入曽の7基、入間川と水富の各4基、柏原の2基となり、奥富にはありません。これをみると、堀兼が突出していますが、同地区では第1期から第2期にかけての造立が主体で、第3期以降はみられません。それとは対照的なのが入曽で、第2期から第3期にかけての造立が目立ちます。
造像上の特徴
第3期の庚申塔
市内の庚申塔では、青面金剛を主尊としたものが15基あります。青面金剛は、元来はインドの土俗神でしたが、やがて仏教に取り入れられて守護神化したとされています。
それが庚申信仰の主尊と化したのは、伝尸病(結核)の加持祈祷の本尊となり、伝尸が
三尸に結びついたためといわれ、その姿は1面4臂(4本の手)が1基、1面6臂が14基です。
次に、庚申塔につきものの三猿を刻むものは20基あります。そのうち19基は、「見まい・聞くまい・話すまい」の三猿で、残りの1基は三猿が踊っているものです。
三猿を刻む意味は、三尸の害を防ぐには悪事を見たり、聞いたり、話したりしないとの考え方が、本来の庚申とは無縁な三猿と結びついたためとか、庚申は「かのえさる」と読むので、そこから猿が彫られるようになったなどといわれています。
また、庚申塔には鶏を刻むものも多く見られます。鶏を刻む理由は、庚申の日を夜明かしすると酉(鶏)の日になるからとか、鶏は多産であるためなどといわれていますが、今のところ定説はありません。
如来
釈迦如来
如来とは、悟りの境地に到達した仏のことをいいます。歴史上の存在では、釈迦如来が広く知られていますが、その後、阿弥陀如来や薬師如来・大日如来など、さまざまな如来が考えられるようになりました。
その姿は、頭はいぼいぼの螺髪で、その中央には盛り上がった肉髻があり、眉間にはホクロのような白毫があります。着衣は、衲衣をまとうだけなので、装身具を身につけている菩薩とは容易に区別できます。しかし、大日如来だけは頭に宝冠を戴き、装身具をつけた菩薩形に造られますが、印相(手の組み方)によって区別することができます。
地蔵菩薩
地蔵菩薩は、頭をまるめて法衣をまとうお坊さんの姿に似ているため、もっとも庶民に親しまれている仏といえます。それは、市内に残る700基余の石仏のうち、地蔵が約3割の204基にのぼることからもわかります。
地蔵信仰
丸彫り立像の地蔵菩薩
地蔵菩薩は、釈迦如来が亡くなってから56億7000万年後に弥勒菩薩が現れるまでの間、この世にあって私たち衆生を救い、極楽へ行けるように力を貸してくれる仏とされています。
地蔵信仰は、平安時代中期以降に極楽浄土の信仰が盛んになり、末法思想が起こるにつれて全国的に広まりました。そして江戸時代になると、民間信仰と結びつき、庶民のあらゆる願いをかなえてくれる仏となったのです。
地蔵菩薩に刻まれた銘文をみると、「奉造立地蔵菩薩」が多数を占めますが、「二世安楽供養」「二親菩提也」「有縁無縁」などと刻まれたものもしばしばみられます。これは、死者の菩提を弔うとともに、みずからの現当二世安楽を祈願したものが多いということの証しです。
造立の時代的推移
半跏趺座像(はんかふざぞう)の地蔵菩薩
地蔵菩薩は、元禄から享保年間(1688~1736)にかけて造立数が多くなり、第1期を迎えます。第2期は、安永から天明年間(1772~89)にかけてで、その後はしだいに減少しますが、天保から嘉永年間(1830~54)と明治30年代(1897~1906)にかけて微増します。
昭和になるとその造立は極端に減りますが、戦後の高度経済成長期である36年(1961)を境に再び急増し、第3期を迎えます。経済の成長は、私たちの生活を豊かにしましたが、精神的にはゆとりのない社会へと変質してしまいました。この時期に地蔵菩薩の造立が増えたのは、こうした社会経済状況を反映してのものと思われます。
造像上の特徴
六地蔵
地蔵は菩薩なので、本来は宝冠を戴き装身具を身につけた形をとるべきですが、頭をまるめて法衣をまとうお坊さんに似ています。それは、いかめしい菩薩の姿では衆生が近づきにくいだろうという地蔵の大慈悲が、そうさせたのだといわれています。
石仏では、右手に錫杖を、左手に宝珠を持つ立像が大部分を占めています。錫杖とは、僧侶が持つ環のついた杖で、もともとはインドの僧が山野を遊行するとき振り鳴らして毒蛇や害虫を追ったものといいます。宝珠は如意宝珠ともいい、意のままに宝など出すとともに、病苦を取り除くことができるとされています。
このほかには、座像や半跏趺座像(片足を下へ垂れたもの)の姿をとるものや、六体の地蔵からなる六地蔵があります。
馬頭観音
馬頭観音は、その名が示すように頭上に馬を戴く姿をしており、市内では地蔵菩薩に次ぐ135基が造立されています。
造立の時代的推移
3面6臂の馬頭観音
市内における馬頭観音の造立は、正徳元年(1711)からはじまります。
その造立が第1期を迎えるのは、享保から寛政年間(1716~1801)にかけてで、像容を刻むものがほとんどです。このころの石仏は、その銘文から現当二世安楽を願うものと、特定の馬の供養を願うものの2種類があり、造立者も村中や講中のほかに、個人のものが混じります。
第2期は、文化から嘉永年間(1804~54)にかけてで、とくに天保3年(1832)以降は文字塔の造立が急増し、しかも馬の供養塔としての性格が強くなります。また、道しるべとしての造塔もみられるようになります。
第3期は、明治年間(1868~1912)にかけてで、このころになると馬の墓石としての造塔となり、すべてが文字塔となります。
造像上の特徴
文字塔の馬頭観音
馬頭観音は、それ自体を像容で現したものと文字塔に分類できます。
像容を刻んだものは、1面2臂・1面6臂・3面6臂・4面6臂などがあり、いずれも明王馬口印を結んでいます。ほとんどが立像ですが、なかには座像もあります。
文字塔は、寛政7年(1795)から造立がはじまりますが、初期のものは「馬頭観世音菩薩」とていねいに刻むものが多く、時代が下るにしたがって「馬頭観世音」「馬頭観音」と彫るものが出てきます。また、馬の墓石として建てられたものは、小型なものが目立ちます。
観音菩薩
七観音
観音菩薩には、前述した馬頭観音のほかに、聖観音・如意輪観音・千手観音・十一面観音などがあります。しかし石仏に限ってみると、馬頭観音以外の造立は多くありません。ただし、江戸時代の女性の墓石には、聖観音・如意輪観音が多数みられます。
観音信仰は、仏教が伝来したときからはじまりますが、平安時代末期から鎌倉時代にかけて浄土信仰が盛んになると、阿弥陀如来の脇侍として、浄土に往生する際に大切な役割を果たす菩薩として信仰されるようになりました。また、六道輪廻の思想が広まると、六道に6体や7体の観音を配することも行なわれました。そして、西国・坂東・秩父の観音霊場巡拝が庶民の間に普及すると、観音信仰はより生活に密着したものになっていきました。
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狭山市入間川1丁目23番5号
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