旗本小笠原家墓所

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更新日:2018年3月6日

旗本小笠原家墓所

小笠原家は、天正18年(1590)徳川家康の関東入国に伴い、三河国幡豆(はず)郡(現愛知県東部)から武蔵国入間郡にやってきた戦国武将小笠原安勝が初代で、現在の狭山市狭山周辺に領地450石(後代に1190石に加増)を賜わった旗本です。
安勝は、文禄3(1594)年に幡豆郡に葬ってあった父・安元の菩提を弔うために寺を建て、安元の法名である天岑紹恩から「天岑寺」と命名し、父の遺骨を天岑寺に改葬しました。
近世、狭山市内の土地は、川越藩領、天領、旗本領に分かれ、幕末時点での旗本は16家ありましたが、中でも田中村、峯村及び沢村を知行した小笠原家は、天岑寺を開基し、代々天岑寺を葬地とし、12代にわたる家族の石塔43基(宝篋印塔2基、笠付角柱型墓石34基、地蔵1基、板碑型墓石1基、石灯籠4基、手洗石1基)を安置しました。
狭山市史では、寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)により8代当主まで分かっていましたが、このほど「狭山楽史会」による墓石調査、古文書調査等により、当墓所には12代にわたる当主とその婦人を始めとする家族の墓石があることが分かりました。
墓石は、当主の先妻、後妻、兄弟、子どもなどさまざまですが、その中で2カ月で亡くなった晴という娘の墓があり、小笠原家が女性や子どもに優しい家風であったことがうかがい知れます。また、幕末の当主は将軍を警護して静岡県牧之原(現島田市周辺)へ行き、この地で開墾方になり、開拓に従事するなどしました。そのため、これ以降の当主のお墓は牧之原ほかにありますが、14代目の当主には女の子1人しか生まれず、その嫡子が昭和12(1937)年に結婚のため小笠原家を廃家とするまで、小笠原家は初代安勝から347年続いたことも明らかになりました。
墓所は、初代の父と初代の2基の宝篋印塔を中心にしてコの字型に並び、天岑寺の裏山に整然とたたずんでいます。

  • 狭山市指定文化財〔記念物・史跡〕
  • 指定日:平成18年(2006)12月1日

場所

所在地
狭山市沢1120番地の1
天岑寺

関連項目

社寺

このページに関するお問い合わせは
生涯学習部 社会教育課

狭山市入間川1丁目23番5号

電話:04-2946-8594

FAX:04-2954-8671

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