篠井家は、代々の当主が笹井観音堂の堂主を勤めた家です。笹井観音堂は本山派修験の聖護院が支配する28院の一つで、室町時代から戦国時代には当地方にあって多くの山伏を配下に治め、絶大な権力を持っていました。
修験とは、原始的な山岳信仰と仏教の密教的信仰が結びついて独自の発展を遂げた宗教の一つで、開祖は役小角とされています。修験者(山伏)は大和国(奈良県)の吉野や大峯などの山に登り、厳しい修行を積んで呪力を体得し、それに基づいて加持祈祷を行いました。観音堂が支配する山伏の数は史料がないため不明ですが、江戸時代のそれによると高麗郡から多摩・入間両郡の一部にかけて、全部で55か寺となっています。
篠井家は多数の古文書を所蔵していますが、そのなかでも戦国時代から江戸時代初期にかけての修験や後北条氏関係の文書16通が、県指定文化財となっています。このなかから特徴のある数点を拾って紹介すると、次のようになります。
- 享禄5年(1532)5月朔日 乗々院大僧正奉書
笹井観音堂が、杣保内(東京都青梅市を中心とする一帯)と高麗郡の山伏を統率する年行事職関係の書類を争乱により紛失した旨の届け出をしたところ、今後も引き続き支配するようにとの内容が記されています。このことから、笹井観音堂はかなり以前から年行事職の地位にあったことがわかります。 - 天正7年(1579)8月27日 聖護院御教書
杣保内と高麗郡の年行事職に加え、入間郡三ケ島郷(所沢市)の山伏と山口郷(所沢市)の宝智坊を配下とすることを聖護院が認めるという内容で、笹井観音堂の支配が広がったことがわかります。 - 天正8年(1580)6月7日 北条氏照判物
北条氏照が、笹井観音堂による前掲(2)の支配を保障するという内容で、後北条氏が笹井観音堂を積極的に保護していたことがわかります。 - 天正16年(1588)正月8日 北条氏照判物
北条氏照が、笹井観音堂が支配する山伏に対し、相模国(神奈川県)小田原への参陣を命じたものです。険しい山岳で修行を積んだ山伏は肉体的・精神的に優れた資質を持っており、北条氏が彼らの持つ能力に強い期待をかけていたことがわかります。
- 埼玉県指定文化財〔有形文化財・古文書〕
- 指定日:昭和34年(1959)3月20日
- 所在地:狭山市笹井 個人蔵
関連項目
社寺
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