北入曽にある七曲井は、すり鉢の形をした古代の井戸で、武蔵野の歌枕として名高い「ほりかねの井」の一つといわれています。
この井戸は昭和45年(1970年)に発掘調査が実施され、すり鉢部の上部直径が18から26メートル、底部直径が5メートル、深さが11.5メートルで、井筒部はほぼ中央にあり、松材で組んだ井桁からなっていることがわかりました。また、井戸へ降りる道筋についても、その入口が北にあり、上縁部では階段状、中途から底近くまでは曲がり道となっていることも判明しました。しかし、井戸が掘られた時期については特定することができませんでした。それは、これまで何回も修理を繰り返して使用してきたためで、史料によれば、最後の改修は宝暦9年(1759年)となっています。
発掘調査による考古学的見地から解明された七曲井については以上のとおりです。しかしながら、この井戸が掘られた時期が全く不明かというと、そうでもありません。それを解明する手がかりは、井戸の所在地が「北入曽字堀難井」にあることです。「堀難井」は、現在は「ほりがたい」と呼ばれていますが、地元では古くから「ほりかねのい」と称していました。文法的にみても『難』は自動詞下二段活用の語「難ぬ」であり、『大言海』にも「常ニ他ノ動詞ト、熟語トシテ用ヰ、遂ゲ得ヌ意ヲ云フ語。能ハズ」とあるので、堀難は「ほりかね」と読むのが正しいと思われます。
「ほりかねの井」が我が国の文献に現れるのは、平安時代前期の女流歌人である伊勢により、「いかでかと思ふ心は堀かねの井よりも猶ぞ深さまされる」の1首が詠まれてから以後で、清少納言が著した『枕草子』にも、「井は堀兼の井。玉の井。走井は逢坂なるがをかしき。山の井。さしも浅きためしになりはじめけん。」とあり、天下の第1位に「ほりかねの井」を挙げています。伊勢の生没年は不明ですが、活躍した年代が宇多天皇の在位期間(仁和3年~寛平9年、887~897)であったこと、『枕草子』がまとめられたのが11世紀初頭であったことを考えると、七曲井は平安時代にはすでに存在していたといえます。
また、延長5年(927年)に完成した『延喜式』巻50・雑式を見ると、「凡諸国駅路植菓樹、令往還人得休息、若無水処、量便掘井」とあります。これは、「諸国の駅路には果物の実る木を植え、旅人に休息の場を与えるとともに、飲み水のないところには井戸を掘りなさい」という意味ですが、七曲井の脇を通る道が中世は鎌倉街道、古代は入間道であったことを考えると、遅くとも9世紀後半から10世紀前半にかけて、武蔵国府の手により掘られたと考えることができます。
- 埼玉県指定文化財〔記念物・史跡〕
- 指定日:昭和24年(1949年)2月22日
場所
所在地
狭山市大字北入曽1366番地
常泉寺観音堂
関連項目
社寺
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