1.政治家としての清水宗徳
天保14年(1843)12月11日、上広瀬村
文久3年(1863)に父の跡を継いで名主となった宗徳は、廃藩置県後は
2.機械製糸工場の設立と斜子織の改良
清水宗徳は明治10年(1877)5月、上広瀬村に県内最初の機械製糸工場の
同社製の生糸は横浜の外国商館から高い評価を得て、高値で取引されました。しかし、設備投資のほとんどを県の勧業資金に依存し、しかもたびたびの風水害により工場のほとんどが破壊されたため、その後の経営は思うように運ばず、同22年(1889)には東京の資本家の手に渡ってしまいました。
宗徳は、市域特産品として著名な
3.川越鉄道と入間馬車鉄道の敷設
明治20年(1887)前後の企業
川越鉄道の開通による入間川町の発展を目にした水富村や飯能町の人々は、入間川~飯能間を結ぶ交通機関の整備に力を入れはじめました。こうして設立されたのが入間馬車鉄道で、明治32年(1899)に創立発起人会が開かれ、翌33年から工事がはじまりました。同鉄道は明治34年(1901)5月10日に開通しましたが、経営内容は当地方の主力産業である製糸業や織物業の不況のあおりを受けて当初見込みを大幅に下回り、赤字経営が続きました。その立て直しに尽力したのが宗徳で、同人は推されて社長に就任し、再建に乗り出しました。宗徳は自らの給料のすべてを会社に寄付する一方、サービスの改善と経営の合理化に努め、大正初期には一切の負債を償却して経営基盤を固めました。しかし、大正4年(1915)に飯能~池袋を結ぶ武蔵野鉄道が開通すると、入間馬車鉄道は再び経営難に陥り、同6年(1917)6月には解散に追い込まれてしまいました。
4.北海道の開拓
宗徳は市域の殖産興業に大きな足跡を残しましたが、その一方で北海道の開拓にも情熱を注ぎました。同人が北海道開拓に取り組む契機となったのは、ロシアのシベリア開発に端を発した我が国の北海道政策によるもので、明治25年(1892)には自ら北海道に渡って北海道庁拓殖課を訪れています。そこで紹介されたのは
しかし、開拓は期待どおりには進まず、宗徳の個人事業に終わってしまいました。開拓が進まなかった最大の理由は資金不足にありましたが、埼玉県は大都市東京に隣接していたため、産業余剰人口のかなりの部分を吸収できる雇用機会を作り出していたためともいえます。
5.清水宗徳の墓
清水宗徳の墓が指定文化財となっているのは、以上に述べたような理由からです。「前代議士清水宗徳之墓」と刻んである
地方政治や国政に、あるいは市域の殖産興業にと大活躍した宗徳ですが、その志しを達することなく、明治42年(1909)8月18日に67歳でこの世を去りました。宗徳は晩年、友人に対して「私の志望は郷里を理想の里にして県下の模範自治体にすることであり、交通機関を整備して鉄路を網の目のように走らせ、産業を興して太平の光景を楽しむことである」と語っていますが、一方で「世間の人は日が暮れてから
- 狭山市指定文化財〔記念物・史跡〕
- 指定日:昭和55年(1980)6月2日
場所
所在地
狭山市大字上広瀬976番地付近
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生涯学習部 社会教育課
狭山市入間川1丁目23番5号
電話:04-2953-1111
FAX:04-2954-8671
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