清水宗徳之墓

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更新日:2011年3月1日

清水宗徳之墓

1.政治家としての清水宗徳
天保14年(1843)12月11日、上広瀬村名主(なぬし)の長男として生まれた清水宗徳は、安政2年(1855)に梅沢台陽(うめざわだいよう)に師事して筆跡を学び、元治元年(1864)には井上頼圀(いのうえよりくに)の門をたたいて国学と漢学を修めました。
文久3年(1863)に父の跡を継いで名主となった宗徳は、廃藩置県後は戸長(こちょう)兼民事取締役に任命されましたが、明治12年(1879)6月になると埼玉県議会議員に選出され、勧業や社会資本の充実に尽力しました。同23年(1890)7月、衆議院議員選挙に自由党から立候補して当選すると、地租の徴収期限の改正に取り組み、納期限を農民に有利となる改正案をまとめて成立させました。しかし、宗徳は2期で衆議院議員をやめ、その後は狭山市域の殖産興業(しょくさんこうぎょう)に全精力を傾けました。
2.機械製糸工場の設立と斜子織の改良
清水宗徳は明治10年(1877)5月、上広瀬村に県内最初の機械製糸工場の暢業社(ちょうぎょうしゃ)を設立しました。同社は木製の製糸機械30組を据えつけたもので、工女60人を配置するとともに、煮繭(しゃけん)には蒸気釜を使用するという画期的な大工場でした。
同社製の生糸は横浜の外国商館から高い評価を得て、高値で取引されました。しかし、設備投資のほとんどを県の勧業資金に依存し、しかもたびたびの風水害により工場のほとんどが破壊されたため、その後の経営は思うように運ばず、同22年(1889)には東京の資本家の手に渡ってしまいました。
宗徳は、市域特産品として著名な斜子織(ななこおり)の改良にも力を尽くしました。斜子織は絹織物の一種で江戸時代から生産がはじまり、男物の羽織りなどに使用されていました。しかしこのころは、川越がその集積地であったため、「川越斜子」として販売されていました。こうしたなかで宗徳は、その品質改良と販路の拡大には同業組合の設立が必要であると生産者に説いて回り、明治18年(1885)に広瀬組(ひろせぐみ)を組織しました。この組合は同業組合準則に基づく法的裏づけのある組合ではありませんが、粗製濫造(そせいらんぞう)の防止に大きな効果をあげ、広瀬斜子が全国的な声価を得るうえで大きな役割を果たしました。
3.川越鉄道と入間馬車鉄道の敷設
明治20年(1887)前後の企業勃興(ぼっこう)期には、上野~青森間を結ぶ日本鉄道をはじめとする私設鉄道が全国的に敷設されました。しかし県西部地方は、蚕糸(さんし)・織物・製茶の主産地でありながら時代の波に乗り切れず、取り残された感がありました。こうしたなかにあって宗徳は、国土の発展と産業の発達を図るには何よりも交通機関の整備が必要との強い信念のもと、川越から入間川・所沢を経て国分寺に至る鉄道の敷設に執念を燃やし、創立委員の一人として積極的な活動を行いました。こうして明治25年(1892)に川越鉄道敷設の免許が下りると、翌年から工事を開始し、同28年(1895)3月21日に全線を開通させました。市域に設けられた駅は入間川・入曽の2駅でしたが、これを契機に入間川町は穀物の集積地として発展し、町内には米穀などを扱う商店が増えました。
川越鉄道の開通による入間川町の発展を目にした水富村や飯能町の人々は、入間川~飯能間を結ぶ交通機関の整備に力を入れはじめました。こうして設立されたのが入間馬車鉄道で、明治32年(1899)に創立発起人会が開かれ、翌33年から工事がはじまりました。同鉄道は明治34年(1901)5月10日に開通しましたが、経営内容は当地方の主力産業である製糸業や織物業の不況のあおりを受けて当初見込みを大幅に下回り、赤字経営が続きました。その立て直しに尽力したのが宗徳で、同人は推されて社長に就任し、再建に乗り出しました。宗徳は自らの給料のすべてを会社に寄付する一方、サービスの改善と経営の合理化に努め、大正初期には一切の負債を償却して経営基盤を固めました。しかし、大正4年(1915)に飯能~池袋を結ぶ武蔵野鉄道が開通すると、入間馬車鉄道は再び経営難に陥り、同6年(1917)6月には解散に追い込まれてしまいました。


4.北海道の開拓
宗徳は市域の殖産興業に大きな足跡を残しましたが、その一方で北海道の開拓にも情熱を注ぎました。同人が北海道開拓に取り組む契機となったのは、ロシアのシベリア開発に端を発した我が国の北海道政策によるもので、明治25年(1892)には自ら北海道に渡って北海道庁拓殖課を訪れています。そこで紹介されたのは空知(そらち)奈井江(ないえ)村(現奈井江町)の山林でしたが、石狩川に面した沃野(よくや)であったためただちに入植することを決め、翌26年には北海道埼玉殖民(しょくみん)協会を設立して入植者の募集をはじめました。
しかし、開拓は期待どおりには進まず、宗徳の個人事業に終わってしまいました。開拓が進まなかった最大の理由は資金不足にありましたが、埼玉県は大都市東京に隣接していたため、産業余剰人口のかなりの部分を吸収できる雇用機会を作り出していたためともいえます。
5.清水宗徳の墓
清水宗徳の墓が指定文化財となっているのは、以上に述べたような理由からです。「前代議士清水宗徳之墓」と刻んである花崗岩(かこうがん)製の墓石は、玉石でできた台座の上に建っていますが、その下には入間馬車鉄道の軌道として使用された2本のレールが供えられています。
地方政治や国政に、あるいは市域の殖産興業にと大活躍した宗徳ですが、その志しを達することなく、明治42年(1909)8月18日に67歳でこの世を去りました。宗徳は晩年、友人に対して「私の志望は郷里を理想の里にして県下の模範自治体にすることであり、交通機関を整備して鉄路を網の目のように走らせ、産業を興して太平の光景を楽しむことである」と語っていますが、一方で「世間の人は日が暮れてから提灯(ちょうちん)を捜すが、私は朝から提灯をつけて仕事をする。日が暮れて狼狽(ろうばい)しない代わりに、先走って蝋燭(ろうそく)の無駄をする」ともいっています。同人が先鞭(せんべん)をつけた地域経済構想は、自らの手では実現できませんでした。しかし、宗徳が築いた産業の近代化はその後着実に根づいて花を咲かせました。それは現在の狭山市を見ればよくわかります。

  • 狭山市指定文化財〔記念物・史跡〕
  • 指定日:昭和55年(1980)6月2日

場所

所在地
狭山市大字上広瀬976番地付近

このページに関するお問い合わせは
生涯学習部 社会教育課

狭山市入間川1丁目23番5号

電話:04-2946-8594

FAX:04-2954-8671

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